2010年5月14日金曜日

『カントを要約する4つの詩的表現』について(論考)

ジル・ドゥルーズによるこの論考は、一見した所、題名どおりに「カント哲学を要約する」という位置付けでカントの諸説を記述しているように見える。しかしながら、これは実際には単純な要約だけにとどまっていない。ドゥルーズはカントの諸説を記述する為にランボー、カフカ、シェークスピア等の作品から表現を持ち出しているが、これは単に象徴の為だけではなく、カントの中に隠れている彼独自のテーマを浮かび上がらせる為に利用している。ドゥルーズが彼自身のテーマについて述べている場所は、カントの自我論とカントの法論とに関連した部分である。ここでは自我論に限って述べる。

カントによる自我論では、コギト(いわゆる超越論的統覚、<私>)と自己意識(いわゆる経験的統覚、<自己>)と呼ばれる2つが重要な役割を持つ。自己意識はコギトの働きによって成立する。コギトは時間を触発する事が出来、これによって直観の多様を生み出す。或いは、時間とはコギトによって直観を作ることが可能になるような心性であると言ってもよい。この直観が悟性によって概念に統一される事によって、初めて認識すなわち自己意識が成立するのである。つまり、認識されるのはコギトそのものではなく、コギトによる時間の触発によって概念化されるものとしての自己意識である。ここでコギトの認識論的位置付けは物自体のそれと相似であると言える。また以上の意味において、コギトは「自己意識の規定作用である」と言われる。

このようなコギトを説明する為に、ドゥルーズはアルチュール・ランボーの「ひとりの<他者>である」という表現を持ち出す。じっさいコギトの認識論的布置は感性の触発という点で物自体或いは他者のそれと同一である為、このランボーの表現には真実性がある。しかしながらランボーの表現だけでは感性の形式にまで踏み込んでいない。確かに他者も<私>も感性を通じて入ってくるが、他者による触発は外官の形式によってであり、<私>の方は内官の形式であるところの時間によってである。他者と<私>との認識論的構造ははっきりと違いがある。さもなければ<私>は他者と区別できなくなってしまうだろう。

それでは何故、このような不十分な表現を承知の上で、ドゥルーズはランボーを持ち出したのだろうか。時間を浮き彫りにするためにランボーを引き合いにしたように思える。

----以下、未編集部分----

カントにおいては、自我はその構成上、能動性と受動性という互いに対立する2概念を内包している:
「私は思考する」は時間を触発するのであり、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを呈示する、そんな自己の実存のみを規定するのである。<自己>は[...]、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。<私>はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり[...]
カントにとっては、反対に、<私>とは概念ではなく、すべての概念を伴う表象である。そして<自我>とは対象ではなく、すべての対象がまるでそれ自身の継起的諸状態の持続的変動に、そして瞬間におけるそのさまざまな度合いの無限の変調にそうするようにしてみずからを関係づけるところのものである。

ランボーは書簡の中で、「<私>とは他者である」と表現した。
また、彼は同時に他の箇所で
「木がバイオリンになるのも仕方がないことなのです!」と表現する。
つまり、ランボーは、私と自己の関係に関して
まだ概念-対象関係から脱出していない事を意味する。

一方、カントの確立した自我論では、

ドゥルーズは、カントの真意は「変調」にあるとする。

ランボーは両義的に扱われる。

それにしてもカントに対してドゥルーズはどうしてこのような、いわば消極的な態度を取ることしか出来なかったのだろう。ここでも然り、ドゥルーズはカントの要約という態度を崩していない。但し最後の文章に何かの暗示を残しているのを除く。非常にゲリラ的というかテロ的というか。

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