2009年12月12日土曜日

『何を構造主義として認めるか』 G・ドゥルーズ (河出書房新社) 第5の規準:セリー

私たちが微分的関係内に把捉されるものと定義した記号要素は、実際には必ずセリーに組織化される。しかし、そのような一定の記号要素は、別の記号要素と別の関係によって構成される別のセリーに関係する。
(P.80)

このように第2のセリーに関連することを簡単に解明するには、以下のことを想起しておけばよい。すなわち、特異性は、第1のセリーから項と関係とを派生させるが、項と関係とを再生産したり反映したりするにとどまるものではないということである。
(P.80)

第一のセリーから派生する項と関係は、別のセリーに組織化される。そして第2のセリーは、自律的に展開したり、少なくとも、第1のセリーを別のセリーに必ず関係させたりすることができる。音素と形態素のように。あるいは、経済的セリーと社会的セリーのように。あるいは、フーコーの3重のセリー、言語学的セリー、経済学的セリー、生物学的セリーのように。
(P.80)

しかし、記号的には、まったく別のことが問題になる。ある項と別の項との想像的同一化ではなく、項の2つのセリーの構造的対応が問題になる。
(P.81)

一方には、微分的関係の要素として把捉される動物種のセリー、他方には、それ固有の関係の内で記号的に把握される社会的位置そのもののセリーがある。「差異の2つのシステムの間」で、要素のセリーと関係のセリーの間で、照合がなされることになる。
(P.81)

「構造」は、様々な主体が位置を占める2つのセリーと上演する。すなわち、手紙を見ない国王----手紙をあからさまに放置することで、それだけうまく手紙を隠せたと喜ぶ女王----すべてを見ていて、手紙を取ってしまう大臣(第1のセリー)。
(P.81)

基底の記号要素とそれが入り込む微分的関係を選択するだけで構造は確定されるわけではないし、対応する特異点をはいうんするだけで構造は確定されるわけでもない。
(P.81)

2009年11月30日月曜日

『何を構造主義として認めるか』 G・ドゥルーズ (河出書房新社) 第3の規準:微分と特異

音素そのものを、それが別の音素に結合される音素関係、たとえばb/pと切り離すことはできない。
(P69)

第3のタイプの関係は、いかなる確定した値ももたないが、関係のなかで相互に確定される要素の間に立てられる。ydy+xdx=0やdy/dx=x/yのような関係である。このような関係は記号的であり、対応する要素は微分的関係の内部に捕捉されている。dyはyとの関係においては全く不確定であり、dxもxとの関係においてはまったく不確定である。dyとdxには値も意義もない。しかしながら、関係dy/dxはまったく確定されており、2つの要素はこの関係のなかで、相互に確定されている。
(P70)

微分的関係の確定に対して、特異性が、すなわち、曲線や図形を特徴付ける特異点の分布が対応する(たとえば三角形は3つの特異点をもつ)。こうして、所与の言語に固有の音素的関係が確定されると、特異性が指定され、その近傍で言語の音声と意義が構成される。
(P71)

すべての構造は2つの面を示す。ひとつは、微分的関係のシステムであり、これによって記号要素は相互に確定される。もうひとつは、特異点のシステムであり、これは微分的関係に対応して、構造の空間を描き出す。
(P71)

記号要素は、当の領域のリアルな存在者と対象に受肉する。微分的関係は、存在者の間のリアルな関係に現実化する。特異性は、構造内の位置を同じ数だけあるが、位置を占めにやってくる存在者や対象に対して、想像的な役割や態度を配分する。
(P71)

いつでも、すべての場合において、記号要素とその関係が、それらを実現しにやって来る存在者と対象の本性を確定するし、他方では、特異性によって形成される位置の秩序が、位置を占める限りでの存在者の役割と態度と同時に確定する。
(P72)

ラカンの弟子、セルジュ・ルクレールが別の領域で示すところでは、無意識の記号要素が、必ずや身体の「リビドー的な運動」に関連し、構造の特異性を特定の位置で受肉させる。
(P73)

アルチュセールとその協力者によるマルクス主義の解釈を見てみよう。そこでは、何よりも、生産関係が微分的関係として確定されている。その関係は、リアルな人間や具体的個人の間に立てられるのではなく、始めは記号の値をもつ対象や行為者(生産対象、生産道具、労働力、直接労働者、非直接労働者、これらは所有と領有の関係に把捉される)の間に立てられる。このとき各生産様式は、関係の値に対応する特異性によって特徴付けられる。
(P73)

2009年11月11日水曜日

ブラタモリ

タモリは江戸時代や明治時代の古地図を片手に都内の街を歩く。
そこで彼は街並や地形の変遷を辿り、その経緯を考証していく。
また彼は現代の景色の中から、当時のまま残っているものを見つけ出す。
それは

時代がすっかり変わってしまっても、どこかに昔の痕跡が残っている。
それを見つけ出す手さばきは鮮やかでありとても心地よい。
でもそれ以前に、過ぎた時代がまだ手の届くところに残っている、
その事実を教えてくれることが、素直に嬉しい。


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グーグル・マップを始めとするウェブ上の地図が普及したことによって、
一般の人達にとっても地図が身近になった。
タモリが『ブラタモリ』で楽しんでいる、
古地図を使った冒険をウェブ上で疑似体験できる。
方法は簡単で、インターネット上に公開されている、
いくつかの時代の地図を比較し、その変遷を辿ればよい。

さて、実際に昭和時代の古地図で、自分にとって
馴染み深い街を眺めていたところ、さっそく小さな発見。
仙台市の市街地をすこし北上したところに、勾当台公園という公園があるが、
この勾当台公園を南北に貫く東二番丁通りは、つい20年前は
違うちょっと様相だったことを見つけた。
現在は下の地図のように、まっすぐに南下していくように見えるこの通りも:



国土地理院が公開している1978年での航空写真では、そうではなかったらしい:



東二番丁通りは、2つの直線的な道路が交差点で連結されることによって構成されていた。
すると今度は、北側・南側どちらの道路が廃棄されたのか、という疑問が浮かんでくる。